それは8月の蒸し暑い夜のことだった。
仕事で遅くなり、山道を車で帰宅する途中だった。時計を見ると午前2時を回っていた。ラジオから流れる音楽も途切れ途切れで、静寂が車内を支配していた。
山道はカーブが続き、ヘッドライトが照らす範囲も限られていた。木々の影が不気味に揺れ、まるで何かが潜んでいるかのようだった。そんな中、突然フロントガラスに大きな虫がぶつかった。驚いて急ブレーキを踏んでしまい、車は横滑りした。
何とか車を制御し、深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとした瞬間、バックミラーに人影が映った。私は息を呑んだ。確かに、後部座席に誰かが座っていた。
恐る恐る振り返ると、そこには白い着物を着た女性が座っていた。顔は髪で隠れていて見えない。私は声も出ず、体が凍りついたようになった。
その女性がゆっくりと顔を上げた。髪がかき分けられ、その顔が見えた瞬間、私は悲鳴を上げそうになった。顔には目も鼻も口もなく、ただの平らな肌だけがあった。
パニックになった私は、ドアを開けて飛び出そうとした。しかし、ドアは開かない。必死にドアノブを引くが、まるで外側から誰かが押さえているかのように、びくともしなかった。
その時、後部座席の女性が口を開いた。いや、正確には顔に裂け目ができ、そこから声が漏れ出てきた。「私を乗せてくれてありがとう。でも、もう降ろしてほしいの」
震える手でバックミラーを覗くと、女性の姿はなかった。ホッとしたのもつかの間、今度は助手席に座っているのが見えた。私は悲鳴を上げ、必死にアクセルを踏んだ。
車は猛スピードで山道を駆け下りた。カーブを曲がるたびに、タイヤが軋む音が響く。助手席の女性は動かず、ただじっと前を見つめていた。
「お願い、消えて」と私は震える声で言った。すると女性はゆっくりと首を回し、私の方を向いた。その顔には今、大きな口が開いていた。歯はなく、ただ真っ黒な穴が開いているだけだった。
「あなたは私を轢いたのよ」と女性は言った。「10年前の今日、この道で」
私は必死に記憶を探った。10年前、確かにこの道で誰かを轢きそうになったことがあった。でも、ぶつからなかったはずだ。そう、確かにぶつからなかった...はずだった。
「違う、私は誰も轢いていない」と叫んだ。
女性は笑った。その笑い声は耳を劈くように痛かった。「本当に?よく思い出してご覧なさい」
そう言うと、女性の体が歪み始めた。骨が折れる音が聞こえ、肉が裂ける音が響いた。目の前で、女性の体が轢かれた時の状態に戻っていく。骨が突き出し、内臓が飛び出す。血が車内に飛び散った。
私は叫び声を上げ、目を閉じた。そして気がつくと、車は路肩に停まっていた。助手席を見ると、そこに誰もいなかった。血の跡も、異臭も、何もなかった。
震える手で携帯電話を取り出し、警察に電話をした。「10年前の事故について調べてほしいんです」と私は言った。
数日後、警察から連絡があった。10年前のちょうど今日、この道で女性が轢き逃げされて死亡していたという。犯人は見つかっていなかった。
私は電話を切ると、そっと目を閉じた。あの夜、確かに私は誰かをかすめたような気がしたのだ。でも、怖くなって逃げてしまった。そして、その記憶を心の奥底に押し込めてしまったのだ。
それ以来、私はその山道を通ることはなくなった。でも、毎年8月のある日、私は同じ夢を見る。白い着物の女性が後部座席に座り、ゆっくりと顔を上げる夢を。そして私は目覚め、自分の罪を思い出すのだ。
この話を書いている今も、背後に誰かの気配を感じる。振り返る勇気はない。ただ、許しを請うことしかできないのだと、私は知っている。