あれは5年前の夏のことだった。私は友人の結婚式に出席するため、久しぶりに故郷の田舎町に帰省していた。式は無事に終わり、二次会も楽しく過ごした後、深夜近くになってようやく実家に戻ることができた。
両親はすでに寝ていたので、できるだけ静かに2階の自分の部屋に向かった。久しぶりの自室は懐かしさでいっぱいだったが、同時に何か違和感も感じた。部屋の空気が妙に重く、冷たいような気がしたのだ。夏の暑さで疲れているせいだろうと思い、シャワーを浴びて早々に就寝することにした。
真夜中過ぎ、突然の物音で目が覚めた。最初は寝ぼけているせいだと思ったが、確かに1階から何かが聞こえてくる。両親が起きているにしては遅すぎる時間だ。不審に思いながらもそっと階段を降りていくと、台所から微かな光が漏れていた。
恐る恐る覗き込むと、そこにいたのは見知らぬ老婆だった。しわくちゃの顔で、長い白髪を垂らし、古びた着物を身にまとっている。老婆は私に気づくと、にやりと不気味な笑みを浮かべた。その瞬間、私の全身に悪寒が走った。
「お帰りなさい、随分と遅かったねぇ」老婆はかすれた声で言った。
私は言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。老婆は台所のテーブルに座り、何かを食べているようだった。近づいてみると、それは生の魚のようなものだった。血のにじむ肉片を口に運ぶ様子は、まるで人間のものとは思えなかった。
「あなたも食べる?」老婆が尋ねてきた。その目は異様に輝いていて、瞳孔が細く縦に伸びているように見えた。
私は咄嗟に「いいえ、結構です」と答えたが、声は震えていた。何とかして両親に知らせなければと思ったが、体が動かない。
老婆は立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてきた。その足音が聞こえないのが不気味だった。老婆の体からは生臭い匂いがしてきて、吐き気を催した。
「あら、怖がることはないよ。私はね、ずっとここにいたんだよ。あなたが生まれる前からね」老婆は私の顔のすぐ近くまで迫ってきて、冷たい指で頬を撫でた。その感触は人間のものではなく、まるで蛇の鱗のようだった。
パニックになった私は、やっとのことで体を動かし、階段へ向かって走り出した。しかし、階段を駆け上がる途中で後ろを振り返ると、老婆の姿は消えていた。代わりに、壁や天井を這うように黒い影が追いかけてきているのが見えた。
自室にたどり着くと、ドアを閉めて鍵をかけた。息を切らしながらベッドに潜り込み、布団を頭まで被った。外では風が唸り、木の枝が窓をかすかに叩く音が聞こえる。そして、廊下を這うような音が近づいてきた。
ドアの向こうで、かすれた声が聞こえた。「開けておくれ、ちょっとお話ししたいだけだよ」
私は震える手で携帯電話を掴み、必死に両親に電話をかけた。しかし、つながるのは私自身の声だった。「もしもし、こちらは留守番電話です。ただいま電話に出ることができません...」
ドアの外の気配がさらに強くなる。鍵穴から覗く目が見えた気がした。そして、ゆっくりとドアノブが回り始めた。私は叫び声を上げそうになったが、声が出ない。
目を閉じて、これが悪夢であることを祈った。しかし、耳元で老婆の声が聞こえた。「目を覚ましなさい。私たちの時間よ」
ゆっくりと目を開けると、目の前には老婆の顔があった。その口は耳まで裂け、無数の針のような歯が並んでいる。私は叫びたかったが、体が動かない。老婆の口が大きく開き、私を飲み込もうとする瞬間...
ガバッと目が覚めた。激しい動悸と冷や汗で、パジャマはびっしょり濡れていた。周りを見回すと、いつもの自分の部屋だ。夜明けの光が窓から差し込んでいる。
安堵のため息をつきかけたその時、枕元に何かが落ちているのに気がついた。震える手で拾い上げると、それは一本の長い白髪だった。