私が最初に「それ」に気づいたのは、引っ越して3日目の夜だった。
古びた一軒家は、祖父の遺産相続で手に入れたものだ。郊外の閑静な住宅街にあり、庭付きの二階建て。老朽化は進んでいたが、格安で広い家を手に入れられたことに、私は満足していた。
その夜、仕事から帰宅し、夕食を済ませてリビングでくつろいでいたとき、ふと違和感を覚えた。部屋の隅、古びたカーテンの陰に、何かがいるような気がしたのだ。目を凝らしてみても何も見えない。気のせいだと思い、テレビを見ることにした。
しかし、その違和感は消えなかった。むしろ、日に日に強くなっていった。
一週間後、二階の寝室で目覚めたとき、はっきりと「それ」を見てしまった。薄暗い部屋の隅に、人の形をした影のようなものが立っていたのだ。驚いて目をこすると、影は消えていた。
その日から、奇妙な出来事が続いた。家の中のものが、勝手に移動している。昨日確かにテーブルの上に置いた本が、棚の中に戻っていたり、キッチンに置いていた皿が、いつの間にかシンクに入っていたり。最初は自分の勘違いだと思ったが、あまりにも頻繁に起こるので、そうとも思えなくなった。
そして、「囁き声」が聞こえ始めた。
最初は風の音か、外の誰かの声だと思った。しかし、明らかに家の中から聞こえてくるその声は、日に日にはっきりとしてきた。それは、人間の声のようで人間の声ではない。まるで、蛇がしゃべっているような、ざわざわとした不気味な音だった。
「ここは...私たちの...家だ...」
「出て...行け...」
「お前は...ここに...いては...いけない...」
恐怖で眠れない夜が続いた。精神的におかしくなっているのではないかと思い、医者に相談したが、特に問題はないと言われた。
ある夜、ついに私は「それ」と対面することになった。真夜中、喉の渇きで目を覚まし、水を飲みに一階に降りたときだった。キッチンに入ると、そこに「それ」がいた。
人の形をしているが、どこか違う。影のような、霧のような存在。しかし、確かにそこにいた。そして、私に向かって口を開いた。
「なぜ...帰って...こないのだ...」
その瞬間、私は凍りついた。その声は、亡くなった祖父にそっくりだったのだ。
戦慄が走る。祖父は、私が生まれる前に亡くなっている。会ったことすらない。しかし、祖父の声を聞いたことがある親戚が、よく「お前は祖父にそっくりだ」と言っていたのを思い出した。
「おまえは...わしの血を引いている...この家の...正当な...後継者だ...」
「それ」...いや、祖父の影は私に近づいてきた。恐怖で動けない私の目の前で、祖父の影はどんどん大きくなり、そして...
私を飲み込んだ。
次の瞬間、我に返った私は、キッチンの床に座り込んでいた。体中が冷や汗でびっしょりだ。しかし、不思議なことに恐怖は消えていた。むしろ、心が落ち着いているような、安心感すら覚えた。
それ以来、家の中の奇妙な出来事は起こらなくなった。「影」を見ることも、「囁き声」を聞くこともない。
ただ、鏡を見るたびに、私は思う。
昔の写真で見た祖父の顔と、鏡に映る自分の顔が、あまりにも似ていることに。
そして時々、自分の影が、少し濃くなったように見えることに。